供養ってなんのため?住職から学んだ『与える精神』について
おはようございますヽ(*´∀`*)ノ.+゚
今日は英語に全く関係のない話題です。笑
先日祖父の三回忌法要がありまして、実家に帰りました。
本当に本当に田舎なので、家か田んぼか畑かお寺しかないようなところです。笑
でもやっぱり、たまに帰ると落ち着くんですよね(*´꒳`*)
法事はいつも同じお寺の住職さんがやってくださいます。
祖父が健在だった頃は、良く一緒に食事をしたり旅行をしたり、プライベートでもとても親交の深かった方です。
この住職さんが、またちょっと変わってるんですよね。笑
バイクガンガン乗ってますし、普段の言葉も決して丁寧ではない。タバコもガンガン吸います。笑
普通に話してると全く住職感はないです。
でも私はこの住職さんの説法が大好きで、何もなくてもお寺に行ってお話を聞いたことがあるくらいです( ´ ▽ ` )
なぜか、私の状況を何も伝えていなかったとしても、その時一番欲しい言葉をくださる人です。
そんな住職さんが先日話してくださったことを、ここでお話できればと思います。
人は誰でもいつか死にます。
まぁ当たり前、ですよね。
住職さんのお父様も数年前に亡くなりました。
言い忘れましたが、この住職さん、意外と偉い人なんです。
日本全国に檀家さんがいらっしゃって、末寺から引っ張りだこ!
月に何回も地方の末寺に行って、法要を司る立場として活躍されています。
そのお父様なので、もちろん本寺を任されていたとても名誉ある方、弟子も多くいらっしゃった方だったそうです。
もちろん法事はしっかりと行いますし、参列する方々もこの世界では名のある方ばかりだとのこと。
そんな話をしていた時に住職がふと「何で法事をやるか、分かるか?」とおっしゃいました。
なぜと聞かれると…そういう風習だから?
供養のため?
という答えしか浮かばず。
そして住職から返ってきたのは
「故人にあの世で会った時、褒めてもらうためだよ」という言葉。
さらに「親父には特に褒めてもらいたいからな」と。
ちょっと意外じゃないですか?笑
「見返りは求めない」とか言いそうなのに、まさかの『褒められるため』です。
住職がさらに続けたのは「この世にいる間は、供養のために法事をやっても、故人の姿が見えるわけでも感謝されるわけでもない。でもいつか、自分が同じ世界に行った時、「あの時はありがとな」って言ってもらえると自分は信じてやってるんだ。今この瞬間の見返りを求めるんじゃなくて、いつか自分の行いが認められる時がくると信じて、与え続けるんだよ」というお話でした。
この話を聴いて『与える』ということがどういうことなのかを考えるきっかけになりました。
住職が伝えたかったのは『まず与えなさい』ということ、そしてそういう人は必ず誰かが見てますよということだったんだと思います。
『与える人には、いつか与えられる日が来る』という考えは、今も昔も変わらないんですね☆
日々の生活でも、この教えを活かしていきます(*´∀`*)
ではでは♪
あっ…
ちなみに住職は、お寺の花を育てるのが趣味という一面もあります。笑